看板娘の美学
おいしい食事は、人を幸せにする。
かわいい女の子も、人を幸せにする。
つまり、おいしい食事を出すお店にかわいい女の子がいた場合、この上なく幸せな気分になることは自明である。
人は、その女の子のことを、「看板娘」と呼ぶ。
下手に野暮ったい看板を掲げておくより、かわいい子がニコニコ笑って働いてくれていた方がお客さんも入るってもんよ、ということだろう。上手いことを言ったもんだと思う。
看板娘には、「もしかすると二度と会えないかもしれない」という切なさがあれば、なお良い。
代々続く老舗の家に生まれ、物心がついたときから注文を取っており、常連のおじさんに「俺がなっちゃんのおしめを替えてやったこともあるんだぜ」というような話をされて、もうゲンさんったらいつまでその話するの、と頬を赤らめる感じの看板娘なら、恐らく毎日店に出ているだろうし、セオリーとしては、住み込みで修行に励む若い板前と恋に落ち、ともに長きに渡って店を守るだろうから、話は別である。
ここでは、恐らく大学生のバイトの子なのだろうな、という看板娘についてのみ言及する。
次に店に行くタイミングに、看板娘がちょうど出勤しているとは限らないし、そもそも就職などで店を辞めてしまっている可能性だってある。(いつも必ず店にいないと「看板」とは呼べない気もするが、細かいことはまあいい)
そんな思いで、食事をするひとときだけの関係を満喫する。お茶の補充をしてくれたり、会計の際にレジを担当してくれるなどの絡みがあれば幸運だ。釣り銭を渡すときに手でも添えてくれようもんなら御の字である。
二度と会えないかもしれない切なさがあるからこそ、次に店を訪れ、その顔を見つけたときの喜びは計り知れないのだ。
間違っても、彼女の行動を一週間観察してシフトを把握しよう、などと考えてはいけない。切なさがなくなるからとかではなく、倫理的にまずい。
そんなわけで、旅行先で適当に入った店に看板娘がいた場合などは、もうたまらない。生活圏内にある店の看板娘と比較すると、また会える確率は雲泥の差だ。
そんなことはわかっていたのだが、今日限りでもう店を辞める、という看板娘に意を決して連絡先を聞き、デートにこぎつけたことがある。
会話も弾んでお酒も進み、よっしゃ次に繋げたぞ、と思っていたが、その後連絡がつかなくなった。
彼女にはもう二度と会えないかもしれない。
この上なく切ない。