普通ごみは火・金

普通ごみをいつ出せばいいのか毎週忘れてしまうので、ブログのタイトルにしました。他にも忘れそうなことをメモしていきます。

「セコムする」を考える

日本には、たくさんの名だたる企業が存在する。

自動車、電気機器、食品、化学……と、分野は色々あれど、その中でも、ある一点において燦然と輝いているひとつの企業がある。

セコム株式会社だ。

長嶋茂雄氏の「セコム、してますか?」でおなじみのこの企業、セキュリティ業界で国内トップの売上高を誇っており、個人・法人を合わせた契約先は200万件以上。日本初の警備保障会社として創業したのち、最近ではドローンを使った警備サービスに乗り出すなど、今なお進化を続けているらしい。

しかしながら、セコムの最も特筆すべき点は、業績や契約者数、将来性といったところにあるのではないと思う。

セコムが成し遂げた偉業、それは、「セコムする」というひとつの言葉を、この国に完全に定着させたことだ。

「セコムする」には、「警備する」「セコムと契約して警備を依頼する」などの意味がある。このことは、日本に暮らしている人間であればほぼ誰しもが理解できるだろうと思われるが、それってかなり凄いことなのではないだろうか。

一時の流行りではなく、何十年も定着する言葉を作り上げるというのは、並大抵のことではないはずだ。

古今東西、たくさんの人々が、自分が提唱した新しい言葉を浸透させようと苦心してきたであろう。そして、それが叶わず淘汰されてきた言葉たちの屍の上に、わずかばかりの言葉たちが君臨しているのである。広辞苑のページの中でふんぞりかえっている言葉たちは、いわばエリート集団なのだ。

「セコムする」も、辞書にのってよい。「現代用語の基礎知識」なんかには載っておたりするのだろうか。

最新のCMを観てみると、「未来をセコムする」とまでうたっていた。いや、そこまでいくともうよう分からん。

 


SECOM CM「未来をセコムする」編【TVCM】|セコム - YouTube

 

チャットモンチー「8cmのピンヒール」の凄さ

人にはそれぞれ好きな音楽があって然るべきだし、その理由についても、サウンドが心地よい、歌詞がいい、歌っている女の子がかわいい、など様々あってよい。
ここで、「歌詞がいい」について考えてみた場合、その「いい」をもう少し深く掘り下げると、主に自分自身の経験に基づく「共感」の気持ちであることも多いのではなかろうかと思う。
「自分にも昔、似たようなことがあったなあ」
「こういう場合、確かにそんな思いになるだろうなあ」
というふうに、歌詞の中の主人公に自己を重ね合わせた結果、大袈裟に言えば、「こいつは、俺/私だ!」となり、この歌詞は素晴らしいことだなあと感じるのだろう。
もしくはその逆で、自分には到底思いつかないようなことを語る歌詞について、「すげえ」と感じる、ある種尊敬の念に似た「好き」の形もある。

チャットモンチーというガールズバンドの曲に、「8cmのピンヒール」というものがある。
ざっくり言ってしまうと、恋する女の子の歌である。
一方、僕は20台半ばの男性で、彼女も3年くらいいない有様なので、この曲の主人公の女の子と僕の間には、なかなか大きな隔たりがあるように思う。
そんな僕だが、この曲の中の、
「8cmのピンヒールで駆ける恋」
という一節が好きだ。
僕は先述の通り女の子ではないし、恋もあまりしていないし、8cmのピンヒールを履いたこともない。履いた感覚や、それがどれくらい足に負担をかけるものなのか、どれくらい走りにくいのか、などといったこともまるでわからない。
しかしながら、それでも、「8cmのピンヒールで駆ける恋」の感覚というか、ニュアンスというか、とにかく何かがわかる。
「好きな男は背が高いほうなのかな、ピンヒールでちょっと背伸びして、実にかわいい女の子であることだなあ」という客観的な視点での評価であればまだ普通だ。それは男性としての僕の意見であるからだ。
しかしそうではない。僕は、主人公の女の子に自分を重ね合わせている気がする。なぜ自分にこの感覚がわかるのかがわからないが、とにかく共感めいたものがふわっと体を通り過ぎていく。
これは驚異的なことだと思う。

この歌詞を書いたのは、ドラムの高橋久美子さんという方で、現在はチャットモンチーから脱退してしまっているらしい。
とにかくこの歌詞は凄い。

看板娘の美学

おいしい食事は、人を幸せにする。

かわいい女の子も、人を幸せにする。

つまり、おいしい食事を出すお店にかわいい女の子がいた場合、この上なく幸せな気分になることは自明である。

人は、その女の子のことを、「看板娘」と呼ぶ。

下手に野暮ったい看板を掲げておくより、かわいい子がニコニコ笑って働いてくれていた方がお客さんも入るってもんよ、ということだろう。上手いことを言ったもんだと思う。

 

看板娘には、「もしかすると二度と会えないかもしれない」という切なさがあれば、なお良い。

代々続く老舗の家に生まれ、物心がついたときから注文を取っており、常連のおじさんに「俺がなっちゃんのおしめを替えてやったこともあるんだぜ」というような話をされて、もうゲンさんったらいつまでその話するの、と頬を赤らめる感じの看板娘なら、恐らく毎日店に出ているだろうし、セオリーとしては、住み込みで修行に励む若い板前と恋に落ち、ともに長きに渡って店を守るだろうから、話は別である。

ここでは、恐らく大学生のバイトの子なのだろうな、という看板娘についてのみ言及する。

次に店に行くタイミングに、看板娘がちょうど出勤しているとは限らないし、そもそも就職などで店を辞めてしまっている可能性だってある。(いつも必ず店にいないと「看板」とは呼べない気もするが、細かいことはまあいい)

そんな思いで、食事をするひとときだけの関係を満喫する。お茶の補充をしてくれたり、会計の際にレジを担当してくれるなどの絡みがあれば幸運だ。釣り銭を渡すときに手でも添えてくれようもんなら御の字である。

二度と会えないかもしれない切なさがあるからこそ、次に店を訪れ、その顔を見つけたときの喜びは計り知れないのだ。

間違っても、彼女の行動を一週間観察してシフトを把握しよう、などと考えてはいけない。切なさがなくなるからとかではなく、倫理的にまずい。

そんなわけで、旅行先で適当に入った店に看板娘がいた場合などは、もうたまらない。生活圏内にある店の看板娘と比較すると、また会える確率は雲泥の差だ。

 

そんなことはわかっていたのだが、今日限りでもう店を辞める、という看板娘に意を決して連絡先を聞き、デートにこぎつけたことがある。

会話も弾んでお酒も進み、よっしゃ次に繋げたぞ、と思っていたが、その後連絡がつかなくなった。

彼女にはもう二度と会えないかもしれない。

この上なく切ない。

AV男優業界の深刻な人手不足が新たな言葉を生む

ブラウザ上で複数のタブを開き、それぞれ異なるアダルトビデオをストリーミングしながら、マルチタスクで鑑賞を愉しむというのは、現代のAVウォッチャーであれば誰もが行なっていることであるが、たまに、タブを切り替えて違うAVを鑑賞しても、同じ男優が出演していることがある。
この現象を、
・エロダブルブッキング
もしくは、
・バーチャル3P
と呼ぶことを提唱する。